My Story
自転車と僕Ⅰ~大阪時代
僕が生まれて育ったのは、大阪の守口市。
国道1号線も近く、京阪電車の駅にも近いロケーションで、そこそこ便利な街だった。また、神社があり、季節のお祭りも賑やかで、境内で蝉取りしたり、地域の子どもがいつも自由に遊んでいた。
そんな子ども時代の思い出に欠かせないのが自転車だ。一言で言うなら、僕にとって自転車は「親友」、いや家族「弟」だ。
初めて自分の自転車を持ったのは、小学校1年生で、もう60年も前のこと。一人っ子の僕に、両親が奮発して買ってくれた。ところが、24インチの自転車は僕には大きかった。親としては、子どもの健やかな成長を思っての選択だったのだろうが、補助輪を付けて乗る状態だった。
そのうち、別の遊びに夢中になって、自転車は玄関に置きっぱなしの状態になった。で、その自転車がちゃんと僕の「弟」になるには、2年近い時間の経過が必要だった。
3年生のある日の夕方、学校帰りの僕は同じ年頃の男の子が気持ち良さそうに自転車に乗って遊んでいるのを見かけた。その時に、頭の中で何かがはじけた気がした。
急いで家に帰った僕は、おふくろに自転車の補助輪を外してもらった。で、24インチのマイ自転車にまたがって、ペダルを踏み込んだ。ほとんどよろめくこともなく、自転車は前に向かって進んだ。心配するおふくろを振り返りもせず、僕はそのまま初めてのご近所サイクリングを楽しんだのだ。
自転車と僕Ⅱ~大阪時代
一人っ子だった僕は、毎日のように自転車に乗って遊んだ。自転車は、僕の我が儘を100%受け入れてくれる最愛の弟だった。
自転車での転倒も何回となくあったが、ラッキーにも大きな怪我は無かった。
高校にも自転車で通った。距離は僅かの3.1km。卒業後は、昼間働いて夜間の大学に通った。この移動ももちろん自転車。朝、家を勢いよく飛び出して6.5km、一気に職場へ。夕方5時に職場を出て7.5kmで大学。授業が終われば、自宅へまっしぐらの5.5km。
今思えばまさに青春、僕は元気溌剌の"自転車小僧"だった。
沖縄の復帰
沖縄がアメリカから日本に返還されたのは、1972(昭和47)年5月15日。
夏になって、夜通っていた大学も夏休み。僕は、会社に休暇をお願いして、両親の故郷沖縄に向かった。初めての飛行機への興味もさることながら、沖縄についてほとんど無知であったので、まるで異国へ旅するようなわくわく感だった。
手紙等でしか交流がなく、馴染みの薄い親戚のみなさんが大歓迎してくれた。さらに僕を歓迎してくれたのは、南国の美しい海だった。
亜熱帯の海は、僕がそれまでに体験したものとは異質のもの、まさにエメラルドに輝く海だった。
今でこそ、年間900万人を超える人々が訪れる観光地だが、復帰直後の沖縄にはそのような賑わいはまだ無く、手つかずの天然の海に囲まれて、時間の流れが大阪のそれとはまったく違って感じられた。波の音の心地よさや強烈な太陽の熱気をはらんだ海風の感触は、僕に何かを思い出させるような心地よいものだった。
何か?それは「何か」だったのだが、僕の心のどこかに通じる新しい回路ができたような気分だった。
沖縄移住
大学の卒業を目前にして、僕は「沖縄移住」を考え始めた。
沖縄は、たしかに両親の故郷。でも、大阪で生まれ育った僕は、それまで沖縄を意識したことはほとんどなかった。で、「沖縄移住」。その明確な理由は、実は43年経った今もよく分かってはいないようなのだ。恐らく僕流の「気紛れ」、「面白い、やっちゃえ」的な気分だったと思う。もちろん、復帰して遊びに行った時の、沖縄の海の印象はとても強烈なものだったのは確かだった。
あえて理由を語るとすれば、「大阪脱出」ということになる。
今思い出しても、子ども時代は楽しかった。テレビが出現した。当初はご近所の友だちの家におじゃまして見させていただいていたが、さすがに親が気をつかったのだろう。ある日、母と一緒に買い物に出かけて帰ってくると、我が家の前に電気店の車が来ていて、近所の子どもたちがいち早く「テレビが来ているよ」と教えてくれた。父が、母にも内緒にして購入したようだった。
以後、電気炊飯器、電気洗濯機、電気冷蔵庫などが、次々と我が家の住人となった。食料品やその他の生活用品も多彩な物が手に入るようになり、テレビのコマーシャルは、日々「新発売」を叫んでいた。経済発展の波を子どもなりに受け止めて、将来はバラ色と思って過ごしていた。
そんな「幸せ」の背後に、水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害の闇が広がっていたことを知ったのは、18か19歳の頃。多くの人たちを犠牲にして僕の「幸せ」が成立していたことを、僕は悲しんだ。ただ、自分自身の生活の身近に公害を感じることはほとんど無かった。
ところが、光化学スモッグが社会問題となった。当時は、主に車の排気ガスと紫外線の作用で発生し、戸外で遊んでいた子どもたちが、急に目眩を起こして倒れるなどの事象が出現した。テレビでも、天気の良い日には光化学注意予報が報じられるまでの事態となった。そこで思ったのは、いよいよ公害が僕らの日常にも影を落とし始めたということだった。 そんな時期に、沖縄で天然の海を見た僕が、人間が本来住む場所として沖縄に憧れを抱いたのかもしれない。
高校3年生の12月に、父が脳溢血で倒れて一晩で他界。年が明けて高校卒業後、昼間働いて夜間の大学へ。5年かかってようやく卒業し、卒業式の3日後には母と沖縄行きの飛行機に乗っていた。その1975年に沖縄では、復帰記念事業として沖縄国際海洋博覧会が開催された。そのテーマは、「海ーその望ましい未来」。
沖縄生活 第一歩~その1
夜通った大学を5年かかってようやく卒業。そして卒業式の3日後、1975年3月26日だったと記憶しているが、僕は母と一緒に飛行機に乗った。日本航空、伊丹発那覇行き。
当時の僕の心境を正確に思い出すことはできないが、まちがいなく不安よりも希望の方が勝っていただろう。
母は自分の故郷でありながら沖縄に移住することに消極的だった。18歳で沖縄を離れ、戦争体験を越えて大阪の土地に馴染んだ身。親しい知人や友人と別れがたかったようだ。でも、「僕一人でも行く」と言って強引に承諾させた。で、僕の沖縄暮らしが現実のものとなったのだが、人生の大きな転換がそれほど簡単なのか。今振り返って、僕にとっては実に簡単だったのだ。
沖縄ではまず、僕は伯父さんの家に居候で母はおばあちゃんの家に。次に、僕の仕事探し。若い僕は何をやってもいいと考えていたので、心配していなかった。でもタイミング良く地元の市役所の採用試験を受けることができて、臨時採用となった。
振り返って、沖縄生活のスタートは十分に順調だったと言える。
沖縄生活 第一歩~その2
やむなく親子での別居を余儀なくされていたのだが、もともと沖縄に来てからアパートでも探すつもりでいたのだ。ところが、これも運が良かった。 タイミング良く県の住宅供給公社が開発した新しい宅地の建て売り住宅の募集があって、それに応募した。
担当者がいろいろと丁寧に対応してくれて、市役所の臨時職員の僕だったが、ある程度の額の頭金を納付することを条件にどうにかローンを組むことが出来て、移住3ヵ月後には入居することができた。沖縄への移住という人生の大きな決断をしたことが弾みになって、住宅購入という重大な決意にまで一気にたどり着いた気がする。 本当にラッキーだったと思う。大阪ではずっと狭い借家住まいだったので、マイホームは夢だった。
にしても、購入価格の殆ど半額近い額を頭金として支払ったのだが、そんな額の貯金をしていた母には驚いた。僕の記憶の限り母はずっと専業主婦だった。父は酒で体を壊して入院することもあった。結局アルコール中毒になって、僕が高校3年生の時に職場で脳溢血で倒れて、一晩であの世に逝ってしまった。母自身も病気で入院したこともあった。そんな暮らしの中で何十年もの間、よほどの節約に苦心してきたものと思うが、そんな苦労を子どもの僕には微塵も感じさせなかったのだ。
さて、購入した家は勤務する市役所からは9.5km離れた隣の街。沖縄に電車はない。バスでの通勤は可能ではあるのだが、家の玄関から職場の玄関までダイレクトに移動できるのが自転車。やはり自転車が僕の沖縄生活のスタートもサポートしてくれたのだ。
上記の住宅購入の頭金を支払って、もう金銭的な余裕はない。そこで、市役所で知り合った友人に地域の自転車屋さんを紹介してもらい、2回払いをお願いして沖縄での最初の"相棒"を購入した。
子ども時代から大阪での生活の締めくくりである大学卒業までを自転車で通って終えて、沖縄での新生活を自転車でスタートさせる。これが、まさに僕のマイ・スタイルなのであった。
自転車からクルマへ
大学を卒業して、3日後には沖縄へ。就職も後回しで、とにかく沖縄。
それには、僕なりの思いがあったのだが、後から考えれば結構無謀だった。それでも、地元の役所に臨時採用となって、とにかく一息。自転車通勤も楽しかった。で、夏には県職員の採用試験を受験。それも、運良く合格して、翌年の4月からある小学校の事務室勤務となった。
自宅から約23km。さすがに自転車でとは考えなかった。そこで、必要となったのがクルマ。しばらくはバスを乗り継いで通ったものの、とにかく時間がかかる。大阪に居る頃にはマイカーを必要としたことは無かった。ところが、電車が無くバスに頼る暮らしはいかにも悠長だった。
やむを得ず、仕事を終えてから連日教習所に通って免許を取った。すぐに、中古車を購入して、いわゆるマイカー族となった。沖縄の人々にとってはクルマは殆ど必需品と言えるのだが、僕にしては人生で特別な出来事だ。
さて、人生初、それまで体験したことのないスピードと機動力を得た僕は、すぐにクルマ中毒となった。とにかく速い。若いので運転はまったく苦にならない。当時はよくおふくろさんと遠出をした。そのうち、彼女ができて、ドライブデイト。まあ、誰もが通る道をしっかりと走った次第。
結婚し、子どもができて、頼りになるクルマは家族の一員。それでも、子どもたちが大きくなるにつれて、自身の年齢、体力の衰えを感じて、運動ということで、再び自転車に乗り始めたりした。フルマラソンに挑戦したりもした。水泳が好きならトライアスロンにもチャレンジしたかもしれない。
残念ながら、そこまで打ち込むことはなく、年月は流れて行った。
初めての小説
募集の記事を見て、ふと書いてみようと思った。
短編で、原稿用紙40枚。毎日、800行のゴールを目指した。締め切り日、その日の消印有効。東京への出張があって、職場から空港に向かう途中に郵便局に寄った。せっかく書いたから、応募だけはしておこう、そんな感じだった。
で、最終選考の6編に残ったとの記事。とにかく、3名のプロの作家が読んでくれる。それだけで、嬉しかったのだが、なんと佳作入賞。そんなことって、あるんだ。
当時、テニスに夢中で、全米オープンをテレビで見ていた。コナーズVSアガシのゲームで、一瞬映し出されたコナーズを静かに見守るパティ婦人の姿。その印象が、人生初の小説「テニスに無関心なK叔母様への手紙」を書かせた。
公務員生活16年で退職
いきなり沖縄に移住してどうにか公務員という職を得たのだが、40歳を前にして人生の路線を変更したくなった。
一回きりの人生、もっと別の道を歩んでみたい。いい歳になって、今更なにをなのだが、そのまま流れるままにというのもどうも納得がいかない。簡単に言うと、もう少し楽しいことをやりたい、ということだった。
家庭がある、子どもも三人いるというのに、周囲の驚きもまったく気にせずにあっさりと退職した。半年ほど人生の夏休みをエンジョイ。平日の日中、誰もいないグランドで走ったりして、ヒマを潰した。そんな気ままもやがて飽きが来る、そして当然に収入が必要ということでアルバイトをした。
一番楽しかったのは、沖縄観光ツアーの添乗員。いろんな観光地を巡っていろんなホテルに泊まった。本島以外の離島にも行った。また、さまざまなタイプのお客様がいて気苦労も多い仕事だったが、それらの人々との交流も楽しかった。かけもちでやったのが、週一回の求人情報誌の配達。自分のクルマで決められたルートを通って、数十軒のお店等に納めた。これは、ずいぶんと楽だった。
いずれにしても、中年にさしかかってのアルバイト暮らし。なんともお気楽な話である。
転職
さて、収入の確保を目指して仕事を探した。
出来るだけ好きなことを仕事にしたかった。で、トライしたのはコピーライター。経験のない、まったくの素人なのだが、言葉に対するセンスは多少はあると自分なりの自信があった。
というのは、公務員を辞める1年前に、地元の新聞社の短編小説賞に応募して、佳作を受賞していた。まあ、そんなこともあっての転職という甘い進路変更だった。
しかし、やはり求めれば道は見つかるもので、小規模であるが那覇市内の広告代理店にコピーライターとして勤めた。いろいろな企業のお手伝いをさせてもらった。難しいがやりがいのある仕事だった。
数年後には、取り引きのあった会社の企画室に就職。さらにその以後、イベント制作の会社に勤め、最後は出版社に入った。そこではいろいろな物を制作したが、中でも面白かったのは取材をして記事を書くことだった。本当に、楽しい仕事だった。
ところが、その出版社が地域のFM放送を引き受けることになったのだが、これは大変な仕事だった。
南国の“自転車風小僧”
クルマ依存症候群。交通網の発達した都会以外の多くの人達が、その状態に陥っていると僕は思っている。
クルマなら、楽に、速く、遠くまで行ける。どうしても必要であるなら、それはとても有用なのだが、特別にクルマの必要が無くてもつい楽なクルマを選んでしまう。そして、例えばスーパーに買い物に出かけても、歩くことが億劫になっていて無意識に入り口近くの駐車スペースを探してしまう。さらに、そのことに殆ど問題意識が無い。そんな生活を続けているうちに、体力のみならず気力までも衰えてくる。
僕自身、問題意識はあったのだが、ついクルマ依存の生活態度になっていた。もちろん、時には気分転換程度にジョギングをしたり自転車に乗ることもありはしたが、基本的にはかなりのクルマ依存の生活だった。そんな暮らしを20年近く過ごした頃、体調にある異変を感じた。
その頃は公務員を辞めて民間のサラリーマンで、長時間労働の上にタイムスケジュールの厳しい仕事だった。具体的に言うと、地域密着のFMラジオ局で、時にはマイクに向かっておしゃべりをすることもあった。ところがある日、僅かなのだが舌が縺れるのを感じた。ちょうど長島元巨人軍監督が脳梗塞で倒れた頃のことで、「不味い」と思った僕はすぐに仕事を辞めた。思いは、「命あっての物種」。楽しい仕事ではあったが、命を掛けるものではない。
自宅で休養し様子を見た。病院に行くのは正直怖かった。間違いなく軽い脳梗塞と考えていたのだが、病院でそう診断され治療するような面倒なことはしたくなかったのだ。
幸い舌の縺れは悪化する様子は無かった。とにかく、ストレス過多の状況だったので、ならばと始めたのがサイクリングだった。今から思えば、かなりの冒険だったと思う。気分だけは昔と同じ。体もまだまだ若いつもりでもいた。で、いきなり20km以上走った。しかも、当時は水分補給が重要との考えも無かった。よくやれたものだと思う。
連日、お天気さえよければどんどん走った。いうなれば、結果オーライ。ストレス解消には十分に効果があったものと思う。自転車に救われたのだった。
特に、恩納村の海岸線は走って最高のロケーション。やはり、大阪育ちの僕には、海の見える風景は憧れだ。そこで、思い切って沖縄市から恩納村へ転居。これは、2度目の恩納村だった。海の直ぐ側のアパートを見つけた。ますます、自転車が好きになった。マウンテンバイクやクロスバイク、タンデムタイプといろいろなタイプの自転車を購入して、その乗り心地を比べて楽しんだ。
まさに、自転車三昧。僕は、南国の“自転車風小僧”。そんな日々を送った。
沖縄県地球温暖化防止活動推進員
さて、“自転車風小僧”と、見得を切ったところで、それがどうした。で、僕は、クルマ依存の沖縄の暮らしに、自転車の愛用を奨める活動を始めた。
ペダリストクラブ、プラネット・チャオと称して、いろいろなイベントに自転車を持ち込んで、その楽しさを伝えた。そんな時に、いよいよ地球温暖化がクローズアップされ、沖縄県でも温暖化防止の為の施策が講じられることとなった。
そこで、募集が始まった沖縄県地球温暖化防止活動推進員に応募した。まったくのボランティア活動なのだが、沖縄での自転車の社会的な役割を伝えるためには、有効なものと考えた。
いろいろな取り組みを企画した。遣り甲斐を感じて、労を惜しまなかった。かつては、公害から脱出をするために沖縄に来た、という思いもあって、本当に打ち込んだ。人生で、一番頑張ったと、今でも思っている。
ストップ温暖化「一村一品」大作戦全国大会
沖縄県の県内大会に出場。それは、事務局からの要請があったからでした。沢山のエントリーがあった方が良い。当然ですね。
まあ、僕としては、自転車の素晴らしさを話するのは望むところですので、大会を少しでも盛り上げることができれば、と参加した次第。頼まれて、「ノー」は言いたくないですよね。
さて、自分なりのストーリーを準備して、気持ちよく話し終えて、いざ結果発表。それがまさかの、グランプリでした。で、県代表で全国大会へ。
びっくりの結果ですが、どうせ東京へ行くなら、ただは行かない。これまた、僕流。自転車を担いでフェリーで鹿児島へ渡って、そこから鉄道等を利用して東京へ。途中、耶馬溪、尾道、京都、静岡、等々を走って東京の会場に到着。
さて、県大会の発表をそのまま発表しては、意味がないと思い。内容を大幅に変更。そして、上位入賞ははなから目指さず、審査員特別賞を狙いに。自転車をテーマにしては、他県のユニークな取り組みには勝てない。でも、沖縄の独自性と特殊性をアピールすれば、審査員のみなさんの心に響くモノがある。
で、結果は狙い通り。なんとか、沖縄代表の面目を保つことができた次第。
レンタサイクル/ペダリストクラブ プラネット・チャオ
地球温暖化防止活動の一環として取り組んだレンタサイクル。レンタカーでの観光が主流の沖縄で、レンタサイクルを広めようと考えた。
開始当初は、認知度も少なく利用は月に数度程度。それでも、リピーターの多い沖縄で、クルマではないモノとして、少しずつ希望者が増えていった。個人でやっているので対応には限界もあったが、最高20台ということのあった。楽しい12年間だった。
利用いただいたお客様の多くが、自転車の楽しさを体感していただけたようだった。
生涯の友の自転車は、やはり僕の親友として、楽しくやりがいのある仕事をさせてくれた。